僕の父は携帯電話を持たない

 

生まれてこのかた持ったことがない、というわけではないらしい。

20年ほど前、ちょうど携帯電話が普及し始めた頃に、会社から支給された携帯電話を持ったことがあるみたい。

 

その時に、休憩時間も、帰宅してからも、会社から、または取引先から、いつ鳴るとも分からない、それがトラウマになっているらしい。

 

家の固定電話もあるし、PCでメールもするから、必要最低限の連絡手段はある。

それでもLINEじゃなくメールや電話で連絡してきてくれるやつは、わざわざ申し訳ないなあと思う、と言っていた。

 

そんな父のことを私は羨んでいるのだ。

 

なんとなくみんな持ってるから、みんなやってるから、スマホをポチポチいじって、馴れ合いの果ての、更にその向こう側にスタンプを送り合い、SNSの承認地獄に飼い慣らされて、いいねはインフレ、社会となんとなく接続されているような気だけ得て、生かされているのだ。

 

携帯電話など本当は持ちたくない。持つ意味がない。

早く田舎で自給自足の生活を送りたい。

電波のまったく届かない田舎で、大型犬を飼って、散歩を日課として、偶に小説を書き、探偵の真似事をし、余命いくばくかになって、コールド・スリープ・カプセルに入り、眠りにつきたい。

1000年後とは言わず、100年後くらいの世界を、何か大きく超自然SF的革命が起こっていることを予期しつつ、それでいてやっぱり大きな変化はない世界の景色を、この眼にぼんやりと映したまま「やっぱりね」と平静を装いつつ、肺とみぞおちの間に冷たい風が入り込んだような、焦りと高揚と消沈の交ざった嘆息を漏らして、永遠の眠りにつきたい。

 

 

それか、仏門に入るか。